2016年2月14日日曜日

「道徳の教科化」に抵抗するなら・・・

自分の子ども時代を振り返ると「道徳の時間」なんぞなかったようにしか思えない。
週一時間定められている「道徳の時間」に反対・疑問を感じていた教師にしか出会わなかったのだろうか。それとも、ただの記憶喪失か。

結局、「道徳の時間」は他の教科や説教の時間などに充てられ、授業実践をしてない教師が多い。だから評価もする教科として「道徳の時間」を行ってもらうんだというのが「道徳の教科化」の表向きの議論だ。つまり、道徳の時間が導入されてきたことに反対し、そのまま無視してきた現場の行いが自らの首を絞める結果になっているのだ。この点は「道徳の教科化」に憂う者として偉大なる先生方に猛省を促したい。

現状、「道徳の時間」をすすめるにあたってどのように行われているか。一般には、各学校が選んだ副読本を使用する。そこには学習指導要領で定めた価値観に合う読み物があり、それを読んで登場人物の心の変化などを話し合いを進めながら追い、その価値に導き、気づかせ、自分自身を振り返り、今後の生活に生かそうとするのである。

が、教科化までのあいだ、教科書代わりとして国が配った『私たちの道徳』は学習指導要領に定めた価値で章立ててあり、価値に気づいていき人格の完成にむけて自分自身で成長を切り開くものではなく、押しつけなのである。そこが現在の「道徳の時間」と「道徳の教科化」の大きな点で、「道徳の時間」を単に国による価値観を押し付けだ、戦前の始まりだと実践をさぼった偉大な先生方のさぼりがこの決定的な違いを見えなくさせているのである。やはり猛省を促したい。

そして今、文科大臣がこの『私たちの道徳』に扱いについて家に持って帰らせるようにと細かいところまで指示をだしている。どういうことか?

「道徳の時間」は教科ではなかったが副読本を使っていた。この副読本は個人に配られるのではなく、学年でセットで毎年少しずつ購入していた。だから学校に置かれていた。その感覚で心のノートも扱い、児童生徒一人ひとりに配られた『私たちの道徳』も教室保管をしていた。それはいつも使うもではないから使うときにいつでも使えるようにという教師側の都合なわけで、それは文科省からしたら税金かけて作ったものを使われていないというのは是正させたところだろう。

しかし、ただ単に文科省のプライドがということではない。今回の文科省の作った『私たちの道徳』には保護者を巻き込んだスペースがあるのである。つまり学校教育を通して家庭教育に国が介入し、その仲介役を教師が担うという形なのだ。国の定めた価値観について是認させ、それについて保護者にもその価値観に沿うようにコメントしてもらい、保護者も再教育していくつもりのようだ。

このような構図に保護者はどう思うであろうか。ありがたいともうか、余計なおせっかいと思うか。
そこは「道徳の教科化」に抵抗したい教師こそ、ないものにせず、積極的に活用していくべきではないだろうか。国の予算の使い道についてしっかり保護者にも考えてもらわなければならないと思う。実践を重ねるとと同時に国の動向も伝える。それこそ公務員としての役割ではないだろうか。

保護者=市民とみて、教育をより良い方向するために共に手を携える関係をつくることが、安倍教育改革から子どもたちを守る手立てとなるのではないかと思い、偉大なる先生方には実践から逃げずに取り組んでもらいたい。


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